佐藤芳嗣法律事務所

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ダムと環境問題

第1 治水思想の変遷

江戸時代の多くの思想家たち(例えば熊沢蕃山)は、雑木を中心とする豊かな森林の育成、遊水池や、溜池の巧みな配置、大雨時の放流を目的とする水無川の造設等を治山、治水の基本に据えていた(「水土の経済学」158頁、室田武著、紀伊国屋書店)。この思想は、豊かな森林により雨を蓄え、大雨時の洪水は遊水池等に導き洪水の力を弱め、もって水害から家屋や田畑を守ろうというものであった。  これに対し、明治以降のわが国の治水思想は、堤防と治水ダムに安全を託す思想に一変した。あらゆる河川に連続堤防を築き、雨は一気に海へ流そうというものである。洪水はダム湖と堤防の中に押し込め、堤防の外の土地は高度利用を計るというものである。このような治水思想の大転換により諸々の問題が発生してきた。特に、自然環境に与えた影響は甚大であった。  森林と治水は切り離された。この為、森林は渓谷の奥まで杉、桧、唐松等の単一林に変わり、またスキー揚やゴルフ場が各地の山林の中に作られた。平地の雑木林は切り倒されて宅地に変わった。遊水池や溜池は埋め立てられて宅地や田畑に変わった。このような変化は過去百年間延々と続けられ、現在も続いている。ダムと堤防に依存した治水忠想のもたらした環境破壊は、今日では無視できないほどおおきくなっているのである。

第2 ダム公害

ダムが建設されることによる自然や文化への深刻な悪影響は、今日広く知られててきている。このダムがもたらす自然や文化への悪影響は実に広範囲に及んでいるし、住民の生活環境を根底から破壊するほど深刻になってきている。近年ダムのもたらすマイナス面は、公害としてとらえられるべきだと主張されるようになってきた。

  1. 水害

    今日多くの巨大ダムの建設目的は治水だと説明きれるのが常である。しかし、治水目的のみの巨大ダムは採算が合わないとされ.発電や工業あるいは農業用水の取水をも目的とする多目的ダムが多く建設されている。治水をダム建設の目的に掲げるのは水没地の住民らを説得するためであるが、治水目的と利水目的を同時に満たすことは極めて困難である。ダムに水を溜め続けることと、大雨に備えてダムを空にしておくこととは両立しないからである。  多目的ダムに限らず、ダムは治水の目的を満たすことができないどころか、かえって水害を招いているというのが経験的事実てある。特に日本のような急流の多い島国においては、ダムを作るとダム湖はもとよりダムの上流は急激な勢いで土砂が堆積する。このため河床が上昇し水害が発生するのである。この河床の上昇による水害は巨大ダムに限らない。言うまでもなく、ダム湖への土砂の急激な堆積は、治水日的の急激な減少を意味する。
    下流においてはとうか。ダムによる治水というのは下流のことを言っているのであるが、経験的事実は、ここでもダムは水害を招くと言う動かし難い事実てある。
    ダムの異状放流による鉄砲水が水害の原因となるのである。これは、大雨時におけるダム湖の水の放流操作の客観的、あるいは結果的な失敗等により起こるが、豪雨、特に地域的な集中豪雨の予測が困雑な現状においては不可避である。
    ところで、わが国においては、長野県内を流れる天竜川水系に代表されるように、本流支流を間わず大小のダムが次々に建設されている。したがって、わが国の多くの河川流域は、ダムの上流であると同時に下流でもある。その典型的な姿である天竜川流域は、まきにダムによる水害の歴史の繰り返しであった(「日本のダム開発」森薫樹・水井大介著、三一書房)。
    1987年8月7日、「新成羽川ダム訴訟」の判決が提訴以来15年ぶりに岡山地方裁判所で言い渡された。住民1551人が「上流ダムの放流操作のミスなどが水害を招いた」として、国や電力会社を柏手に損害賠償を求めていたものである。裁判所は、「ダム操作に過失はなく、操作規定にも欠陥はない」などとし、原告らの訴えを退けた。また、長野県内を流れる犀川にある水内ダムは、地元住民が「ダムを作れば水害を招くことは火を見るより明らかだ」として反対したにもかかわらず、昭和18年に作られた。しかし、早くも昭和20年に大水害に襲われている。それ以来住民は長く困難な交渉を東京電力らとしてきているが、昭和58年には再度大水害に襲われた。それでも東京電力は大雨による自然災害と言い続けているのである。このように、国や電力会社はダムが水害の大きな原因になつていることを一切認めようとしない。しかし、ダムが水害の原因を作っていることは、ダムができてから川や山がどう変わったか経験的に知っている地域住民にとっては、あまりにも自明のことである。長野県下伊那郡泰阜村にある中部電力・泰阜ダムについては、「泰阜ダムのせいで河床が上昇して洪水が頻発するようになった。」として、一時期「ダム撒去訴訟」が検討されたという。(前掲「日本のダム開発」参照)。

  2. 水質汚濁

    「水は三尺流れるときれいになる」と昔から言い伝えられてきた。確かに河川の持つ自然浄化力には目を見張るものがあり、近年多くの科学者らによて河川の持つ自然浄化力が強調されてきている。ダムを作るということは、水の流れを人為的に止めることである。千曲川と中仙道が交差する村で育ち、現在も千曲川沿いの上田市に住んでいるが、年寄りたちはしきりに「水が汚くなった。水が少なくなった」とこぼしている。発電用のダムができ、水道用水が大量に取水されるようになり、水は河川を流れずコンクリートの管の中を大量に流れるようになった。堤防もコンクリートのものが多くなった。普段は雑廃水や農薬で汚れた少ない水が流れ、大雨が降ると濁流が一気に海へ流れ出る、そんな状祝が日本の多くの河川の現状である。ダム湖においては、家庭の雑廃水や農薬が流れ込んで水がよどみ、富栄養化が進行する。そして、水中の酸素が欠乏して原生植物、カビ、バクテリアなどが繁殖し「くさいダム」となっていくのである。今では水道水の異臭問題が各地で発生するようになっている。
    私の住む上田市の近くに菅平高原がある。ここは高原野菜の産地であると共に、冬はスキー、夏はサッカー・テニス・ゴルフの観光地である。菅平高原から上田市を流れ千曲用にそそぐ神川の上流に菅平ダムがある。このダムは発電用のダムであると共に上田市の上水道の水源地もなっている。3年程前に菅平ダムのすぐ上に下水処埋場が建設された。この下水処理場の水は自然浄化することなくダムに流れ込み、このダムから導水管で発電所に送られる。発電所のわずか下流が上田市水道局の取入口であり、そこからやはり導水管で浄水場に送られる。したがつて、自然浄化の機会はほとんど無いまま水道水として利用されているのである。市民の間から、もっと自然浄化の機会が多くなるように、下水処理場の水はダムに流さずダムの下の神川に流すべきだとの市民運動が起きたが、行政や住民の理解が無く実現しなかった。

  3. 3ダム災害

    ダム湖の周辺では、しばしば地滑りが発生するといわれている。1963年10月9日、イタリアの巨大ダムであるバイオントダムで大規模な事故が発生している。
    いく日も続いた降雨の後、ダムの上流にあるトック山で山崩れが発生した。約3億立方メートルもの士砂がわずか1分足らずの間にダム湖に流れ込んだという。このため、約3000万立方メートルもの大量の水がアーチ式のダムの堤を一気に越えてバイオント川を馳け下り、2キロ下流の村を襲った。この結果、2000名を超える村人が逃げる間もなく死亡している。この大事故は、ダム湖の水が岩盤の亀裂を通って浸透したのが山崩れの引き金になり発生したと見られている。このダムは、現在巨大な廃墟になっているという。
    1959年12月2日、フランスにあるマルパッセダムでは、ダムの生命線と言うべきダム堤そのものが決壊した。ダムの完成からわずか4年後のでき事であつた。この事故では、下流の町が真夜中に洪水に襲われ、700人余りの住民が死亡したという。ダム左岸の岩盤が弱かったことがこの大事故の原因だという。
    ダム災害は日本でも起きている。1936年11月、秋田県尾去沢鉱山ダムが決壊し、300名を超える住民が死亡している。浅間山のふもと千曲川沿いに小諸市があり、そこに懐古園がある。この周辺の自然や人々の暮らしを島崎藤村は「千曲川のスケッチ」に書いているが、この懐古園から干曲川を見下ろすと、小さな発電用ダムが見える。昭和3年8月29日、このダムの一部が壊れ、12万立方メートルの水が流れ出た。この事放で7人が死亡し、9戸が破壊された。これは、ダム左岸の止水壁の基礎岩盤に侵入した水が岩盤を軟弱化させたために起こった事故だという。
    ダム堤の決壊は、原子力発電所の事故で言えば原子炉の溶解(シンドローム)事故のようなものであり、あってはならない事故であるし、建設する側では絶対に起こり得ないと言うに違いない。しかし、世界のこれまでのダム災害を検討すれば、むしろ経験的には十分起こり得ると考えるべきであろう。黒部川峡谷に建設されたあの巨太な黒四ダムは、初めて見るものをして感動せしめるものがある。しかし この貯水量2億立方メートル近い大型ダムは、完成以来しばしば地震を発生させ、また、完成後わすか13年で堤にヒビが入ったため、貯水を全部放流して修埋されているという事実を知った時、感動は恐怖に変わるのである。
    前掲の「日本のダム開発」を読むと、ダム災害が予想以上に多いことが判る。ダムの決壊は十分有り得るという前提でダム建設の有無を考えていかなければ、後世に大きな災いを残すことになろう。

第3 千曲川上流ダム建設計画

  1. 計画概要

    早くは、昭和39年頃に千曲川上流ダム構想があったという。関東の水不足解消のために千曲川の水の一部をまわすという意図があったと言い伝えられているが、この構想はその後立ち消えになっていた。昭和49年3月、建設省は「信濃川水系工事実施基本計画」を策定し、信濃川上流に多目的ダムを建設する構想を明らかにした。しかし、この構想は一般にはあまり知られずにいた。ところが、昭和56年から同58年にかけて、千曲川下流の飯山地区では3年連続して水害に襲われ、大きな被害が発生した。翌昭和59年5月、建設省千曲川工事事務所が、水没予定地区をかかえる長野県南佐久郡南牧村に現地調査依頼をなしたことから、千曲川上流ダム計画が一気に表面化した。
    千曲川工事事務所の資料によると、このダムは多目的ダムであり、貯水面積3平方キロメートル、貯水量700万ないし8000万立方メートル、型式は重力式コンクリートダム、堤の幅250ないし300メートル、ダム堤の高さ70ないし80ノートルである。そして、 総工事費は約1000億円、治水容量約5000万立方メートルとされている。
    国は、千曲川の治水計画にはダムが必要であり、計画されている千曲川上流ダムは治水に有効であるという。長野県当局は、飯山市で3年連続して起きた水害対策は重要かつ緊急な課題であり、建設省の千曲川上流ダム計画は有効な一つの案と受け止めているということである。いずれにしろ、国や県は治水対策がダム建設の目的であると説明しているのである。

  2. 地元の反対運動

     千曲川士流ダムにより、150ないし200戸、耕地100ヘクタールが水没し、南牧村の三つの部落が消えることになる。しかも、南牧村はダムにより地埋的に分断される。水没地の住民に、金銭では必ずしも回復できない諸々の損害を与えることは言うまでもないし、村にとっても重大な影響が発生する。
    早くは昭和57年10月頃に、ダム建設予定地の南牧村広瀬地区に「南牧村広瀬ダム反対期成同盟会」が結成され、地元の反対運動が始まった。その後、前記の現地調査を契機に、住民の間にダム建設反対の空気が急速に拡がり、昭和59年11月24日、南牧村議会がダム建設反対の決議をなした。このような状況下で、南牧村当局も反対運動を積極的に推進していくことになった。そして、昭和60年1月20日には南牧村の村民大会が聞催され「地域住民の生活権、生存権を無視したグム建設計画、村を二つに分断するダム計画には絶対反対する。水い歴史の中で培われた生産、生活基盤、これらを取り巻く豊かな自然は村民の誇りであり、我々が後世に残す唯一の財産である。我々は、この土地を守るため、村民の力を結集して絶対に反対する。」旨の格調高い決議がなされた。実際、南牧村を中心とする地元では、村長をはじめとする村当局はもとより、各区、財産区、農業委員会、老人クラブ、青年団.婦人会等が次々と建設反対の意思表示をし、反対運動を推進している。 この地元の反対運動の大きな特徴は、ダムがすでに建設されてしまった地城、そのために苦しんでいる全国のダム現地の視察を、村議会を中心にかなり精力的に行い、そのつど視察報告書を出していること、ダム公害の専門家を数多く招き、ダムの研究集会、講演会を積極的に行っていること、村が専門家で構成する学術調査団に依頼して、干曲川上流ダムに関する科学的調査を進めていること、南牧村が「ダムニュース」、南牧村職員組合が「ダム情報」を出して、住民にダムに関するあらゆる情報を流してていることである。
    また、地元の佐久地区評、自治労長野県本部などの労働組合もいち早く反対運動に立ち上がり、研究集会を開催したり、地元の各市町村議会や首長に千曲川上流ダム建設反対に関する陳情を行うなどした。そして、1985年1月には、長野県評、自治労・流域の各地区評その他の組合が集まり、「千曲川上流ダム建設反対、流域防災確立長野県連絡会」を結成し、1986年4月には、全国から500人も集めてダム問題全国交流集会を開催するなど、極めて有意義な活動をしている。
    南牧村は、千曲川上流ダム絶対反対の立場で国や県と話し合いをしてきている。しかし、国らはダム建設の必要性を繰り返し主張し、話し合いは膠着状態に陥つているようである。
    長野県南佐久郡の五町村で作る「千曲川上流間発協議会」は、昭和57年頃、民間のコンサルタントに依頼して「千曲川上流開発計画」をまとめたという。この中には、ダム計画が盛り込まれているようである。また、昭和59年8月21日には、ダムの下流に位置する上田市や中野市の市長が南牧村を訪れ、ダム建設促進の陳情をしたという。このようなダム建設推進の動きは、反対運動が組織化される前や弱い時期になされていることは、これからの反対運動にとって教訓となろう。