佐藤芳嗣法律事務所

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フィリピン日本軍「性奴隷」裁判

一 はじめに

「従軍慰安婦」問題は、千田夏光氏などの一部の先駆的な仕事を除くと戦後長きにわたって闇に葬られてきました。ところが、東西冷戦構造が崩壊し、韓国、台湾、フィリピンなどの民主化が進行した1990年代になり、日本を含むこれらアジア諸国の中でこの問題が取り上げられるようになりました。韓国、台湾、フィリピン、オランダなどの元「慰安婦」の方々が、被害の実態を語るようになつたのです。この「慰安婦」問題が社会問題化した当初、日本政府は、政府や日本軍の関与を否定していました。
しかし、日本政府は、92年になり、「慰安所」の設置・管理に日本軍が関与していたことを認め、93年には、「慰安婦」の募集についても、軍当局の要請を受けた業者が「本人の意向に反して集めたケースが多数ある」こと、官憲等が直接これに加担するケースもみられたことを認めました。そして、93年8月4日、当時の河野洋平官房長官が、「従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は、心からお詫びと反省の気持を申し上げる。我々は歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として、永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さない」旨の談話を発表しました。これが現在も歴史の真実と向き合わない人々が、しばしば攻撃する河野官房長官談話なのです。
アジア各国の「慰安所」で性奴隷として働かされた元「慰安婦」で、最初に日本政府を相手に訴えを提起したのは、韓国人元「慰安婦」の方々であり、91年12月のことでした。その後、93年4月に、今回お話しするフィリピン人元「慰安婦」の方々が提訴し、同月には在日元「慰安婦」の方も提訴しています。その後も台湾・中国人などの元「慰安婦」の方々が次々に日本政府を相手に提訴しています。

二 フィリピンにおける戦争犯

1898年のアメリカ・スペイン戦争でアメリカが勝利したことから、フィリピンはスペインの植民地からアメリカの植民地になりました。しかし、1935年にフィリピン独立準備政府が発足し、46年にはアメリカから独立することになっていました。ところが、41年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾のみならずフィリピンも奇襲し、アジア・太平洋戟争が始まりました。当時、フィリピンの防衛は、アメリカとフィリピンの連合軍であるアメリカ極東軍が行っており、その総司令官はあのダグラス・マッカーサーでした。
日本軍は、マッカーサーをオーストラリアに追いやりフィリピンを占領します。このフィリピン占領下において、日本軍はいくつかの戦争犯罪を行います。例えば、戦闘に敗れバターン半島に退却したアメリカ極東軍約五万人を捕虜にします。そして、日本軍は、捕虜を約100キロメートル先の捕虜収容所まで強制的に徒歩で移動させます。この時、日本軍は多数の捕虜を死亡させます。これが「バターン死の行進」です。
また、日本がフィリピンを占領した後、全土で日本の占領に抵抗する諸活動が行われます。フィリピン各地にゲリラ組織が結成され抵抗運動が繰り広げられます。日本軍は、これに対処するためゲリラ掃討を繰り返しました。戦況が悪化する中で、日本軍は「住民にしてゲリラに協力する者はゲリラとみなして粛清」します。これが戦争末期にフィリピンで実行された「戦場の無人化作戦」です。この作戦でフィリピン各地で女性や子供を含む無差別な住民虐殺が行われました。
戦後、フィリピンにおけるBC級戦犯を裁くマニラ軍事裁判が行われました。この裁判では、381件の起訴事実の内、138件が住民虐殺、45件が強姦です。他のBC級戦犯裁判では、捕虜虐待が多かったのですが、住民虐殺や強姦が多かったことが特徴でした。

三 名乗り出たフィリピン「性奴隷」被害

韓国人元「慰安婦」金学順(キム・ハンスク)さんが、91年夏、初めて「従軍慰安婦」として名乗り出ました。この告発は、日本国内だけでなく国際社会にも大きな衝撃を与えました。当時、フィリピンにネリア・サンチョやインダイ・サホールが組織していた「アジア女性人権評議会」がありました。この団体がラジオで被害者に名乗り出るよう呼びかけたところ、92年10月、マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんが、フィリピンで最初に自らの性奴隷の体験を明らかにしました。インダイ・サホールは、日本で戦後補償裁判に取り組んでいた高木健一弁護士に連絡し、フィリピンでの調査を依頼しました。高木弁護士は、全国の多数の弁護士と共にフィリピン性奴隷の被害調査を実施しました。そして、93年4月に18名が、同年9月に28名が、日本政府を相手に一人2000万円の損害賠償請求の訴訟を提起しました。

四 フィリピン人「性奴隷」の被害状

記録によれば、フィリピンにも日本軍が管理する「慰安所」が各地にありました(「従軍慰安婦資料集」大月書店、92年。共同研究「日本軍慰安婦」大月書店、95年)。しかし、日本政府を相手に提訴した46名のフィリピン人女性は、日本軍慰安所で性的虐待を受けた典型的な「慰安婦」ではありません。彼女らは、日本兵に銃剣を突きつけられ、暴力的に拉致・監禁され、継続的に強姦を繰り返された文字通りの「性奴隷」なのです。原告の一人であるトマサ・サリノダさんは次の通り証言しています。
「アンティケ州サンホセの家の近くに日本軍の駐屯所があった。ある日、日本兵が家に押し入ってきた。二人の兵士が私を連行しようとしたため一緒にいた父が抵抗した。すると兵士の一人が父の首を剣で切り落として殺した。自分は日本軍の駐屯地近く、サンホセ・ゴビエルン通りにある大きな二階建ての家に連れて行かれ監禁された。そして、複数の日本兵から強姦された。毎日二人から五人の兵士に強姦された。一度隙を見て逃げ出し、ある家にかくまってもらったが、オクムラという日本人がその家に来て私をオクムラの家に連れて行った。そしてオクムラに強姦されたり掃除や洗濯をさせられた。日本軍がサンホセからいなくなるまでオクムラの家にいさせられた。」
原告のルフィーナ・フェルナンデスさんは次の通り証言しています。
「マニラは、43年までは比較的平和でした。アメリカ軍が戻って来る数カ月前から、日本軍による地域掃討作戦が始まりました。この作戦で日本軍は村を焼き払い、男たちを虐殺しました。この作戦の前に私の家族は近くの山に隠れたり防空壕の中に隠れたりしていました。しかし、食物がなくなったりしたため家に帰りました。ある夜、寝ていると突然日本兵が襲ってきました。父が抵抗し日本兵に首をはねられ殺されました。母親や妹も殺されました。私は自動車に乗せられ大きな家に連れて行かれました。その家は日本軍の駐屯地となっており日本兵が50人以上いました。その家の一つの部屋で私は強姦されました。当時私はまだ初潮がありませんでした。私は毎日六人ぐらいの日本兵から強姦されました。私は約3カ月間そこに監禁され性的虐待を受けました。」

五 ハーグ条約を掲げて闘う

弁護団が、国に対する損害賠償請求の根拠とした法理は、国際法、国内法を含め多岐にわたりますが、重要なのは、07年に締結されたハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例二関スル条約)三条に基づく個人の損害賠償請求権です。ハーグ条約三条は、「(ハーグ条約付属規則に違反した)交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之力賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為二付責任ヲ負ウ」と規定しています。ハーグ条約三条に基づき国を相手に損害賠償請求する戦後補償裁判は、オランダ人元捕虜・抑留者の損害賠償裁判をはじめ多数あります。しかし、フィリピン性奴隷国家賠償裁判の提訴当時は、ほとんどありませんでした。また、日本の学者でハーグ条約を根拠に個人請求権が認められるとの解釈を公にする学者もいませんでした(もっとも広瀬善男教授は、「捕虜の国際法上の地位」(日本評論社、一九九〇年)において、戦時国際法の分野では、古くから国際法上の個人の権利が認められていることを論じていました)。
しかし、フィリピン裁判の弁護団は、オランダ人元捕虜・抑留者の損害賠償裁判の弁護団等と共に、ハーグ条約三条は個人の請求権を認める規定であることを全面的に打ち出し、裁判を闘いました。当初は、協力してくれる学者もなく、孤軍奮闘の闘いでした。
ところが、裁判を続けていたある時、オランダの国際法学者であるフリッツ・カルスホーベン教授がハーグ条約の起草過程を研究し論文を発表しているらしいとの情報が、フィリピンの支援団体から入りました。96年8月、フィリピン裁判の弁護団から横田雄一弁護士と私が、オランダ裁判の弁護団から鈴木五十三弁護士がオランダに行き、同教授と会いました。同教授は、ハーグ条約三条は個人請求権を認める規定であること、国際法を国内法として一般的に受容している国においては、国内の裁判所で同条項を根拠に個人の請求権を認める余地があると説明してくれました。両弁護団は、同教授に専門意見書を書いていただき、また、日本の法廷で証言していただくことにしました。
こうして、カルスホーベン教授は、96年6月24日にオランダ裁判で、同月28日にフィリピン裁判で、ハーグ条約三条に基づく個人請求権が認められることを証言しました。これに対し国は、東大教授である小寺彰氏の専門意見書を提出してきました。この小寺意見書は、ハーグ条約三条は伝統的な国家責任の法理、すなわち、被害国の加害国に対する賠償請求権を規定したにすぎないとするものでした。
伝統的な理解では、国際法は国家と国家の関係を規律する法であり、原則として個人は国際法上の主体になれず、個人が他国の違法行為により損害を被った場合、この損害は当該個人の所属国家の損害とみなされ、被害者個人ではなく、当該国家が相手国に外交保護権を行使して、その損害賠償請求権を行使するとされてきました。しかし、このような伝統的な国際法の解釈は、ハーグ陸戦条約や戦後のジュネーブ四条約に代表される戦時国際法(国際人道法)や、国際法の分野でも人権を国境を越えて普遍的な権利として保障しようとする国際人権法の発達により揺らいできました。我々弁護団は、国家のみが国際法上の主体であり、被害者個人の権利を国家が自由に処分し、放棄できるとすることは、個人の権利が尊重されない絶対君主制の時代ならばともかく、国際人道法や国際人権法が発達した現代社会においては、もはや通用しない考えであり、克服されなければならないと考えました。
カルスホーベン教授の専門意見書が公表された後、海外の国際法学者のなかでも日本の国際法学者のなかでも、これを支持する意見書が次々に出てきました。七三一・南京虐殺損害賠償事件での阿部浩巳専門意見書(98年7月)、広瀬善男教授の戦争損害に関する個人賠償請求権に関する専門意見書(99年9月)、ハーグ条約三条と個人の賠償請求権を論じた申惠0N助教授の意見書(2000年3月)等です(詳細は「戦争と個人の権利」九九年、藤田久一他編、日本評論社及び「戦後補償と国際人道法」〇五年、高木嘉孝・永野貫太郎他編、明石書店参照)。

六 裁判所の厚い壁

第一審判決は98年10月9日(判例タイムス一〇二九号九六頁)に、第二審判決は00年12月6日(判例時報一七四四号四八頁)に、最高裁の決定は01年12月20日に出されました。我々が主張したハーグ条約三条に基づく個人の損害賠償請求権は、いずれの裁判所も認めませんでした。また、オランダ人元捕虜・抑留者の損害賠償裁判その他多くの戦後補償裁判でも、ハーグ条約三条に基づく個人の損害賠償請求権は認められておらず、裁判所の厚い壁に阻まれたままです。しかし、戦争被害の救済は、各国の国内法だけでなく国際法の分野で救済がはかられるべき問題であると思います。主権国家が併存しているという歴史的発展段階の制約から、国際法はいまだ完成された法体系ではなく、生成発展しつつある法分野です。しかし、国際法上の個人の地位は、次第に高まってきています。特に、各国の憲法レベルだけでなく、国際法の分野で、人権を国際的に保障していく動きは歴史の発展として止めようもありません。このような現代社会で、個人も国際法上の主体として浮上することは歴史の必然です。そして、個人の国際法上の地位を押し上げていくことは、国家の窓意的な主権の行使(戦争はその最たるもの)を制約することになるのです。

最後に

フィリピン「性奴隷」損害賠償請求裁判の大きな特徴は、日本全国の多数の市民団体が、「フィリピン人元『慰安婦』を支援する会」を組織し、裁判を支援したことです。この会には、日本キリスト教協議会、カトリック東京教区正義と平和委員会、アジアの女性たちの会、ルナス・フィリピン人元「慰安婦」とともに、アジア人権ボランティア・ネットワーク(AVN)、日本の戦後責任をハッキリさせる会、ききょう(トラジ)の会などが参加しました。
裁判は極めて長期の闘いであり、結論だけを見れば敗訴でした。しかし、フィリピンにおける現地調査や裁判傍聴の支援を多くの市民が行い、裁判のたびに来日した多数の被害者から全国各地の市民多数が被害の実態を聞きました。フィリピンの女性解放運動の活動家たちも裁判を支援しました。日本とフィリピンの大勢の市民が連携し、物心両面にわたり被害者たちを支える運動を精力的に行いました。国境を越えて市民レベルでの広がりをもって闘われたフィリピン裁判は、敗訴にもかかわらず、歴史的に重要な意味のある裁判であったと思います。
以上

(さとう・よしつぐ一九四九年長野県生れ。フィリピン性奴隷裁判、中国人強制連行、中国残留孤児長野裁判に参加。日弁連のフィリピンにおける戦争被害、フィリピン残留孤児の調査に参加)